昨年末、東海道五十三次の内の 府中宿(静岡市葵区,JR静岡駅前)から丸子宿(静岡市駿河区丸子)迄の約6kmを歩いてきました。
この宿場間には2つ名物がありましたが、その1つ安倍川もちにはがっかり(前回のブログ 「その1」 参照)でしたが、もう1つ、丸子宿(鞠子宿:まりこじゅく)のとろろ汁を昼食に食べる事に期待を持って、安部川での休息後歩きを再開しました。
安部川を渡った所は ”手越” と言う街です。
江戸時代の手越は下写真の様に小さい街だった様ですが、非常に古い街の様で、1200年頃の蘇我物語や平家物語に出てくる人達が生まれた街との事。
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で、少し歩き、国道1号線と別れ、208号線を10分程歩くと、下写真の様な地蔵堂がありました。
この地蔵堂は 「佐渡りの子授地蔵尊」 と言うそうで、「昔、子供に恵まれない夫婦がここに安置されているお地蔵さん1体を借り、信仰すれば子供が授かると言われており、めでたく子供が授かった人は新しいお地蔵さんを1体作り、お礼まいりをした」 そうです。
その為に地蔵堂にはたくさんのお地蔵さんが祀られているとの事。 残念ながら今回は地蔵堂の中を見る事は出来ませんでした。
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208号線には昔の松並木の名残りと思われる松の木が何本か植わっており、丸子宿手前の街は、私が想像していた以上にひらけた街で、更に20分強歩くと下看板が見つかり、その先は道が細くなっていました。
この230m先が東木戸との事で、ほぼこの辺からが江戸時代の丸子宿の様です。
ここ迄きて、「あれェ~、一里塚がなかった???」 どうやら長田西小付近にあったはずですが見逃した様です。
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今は 「丸子宿」 と書く事が多いのですが、読みは 「まりこじゅく」 で、昔は 「鞠子宿」 と書く事が多かった様です。
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丸子宿の東木戸から10分程歩くと 「本陣跡」 の石碑が見つかりました。
![blogDSCN5116.jpg]()
更にほんの少し歩くと 「お七里役所」 跡があり、そのお宅には丸子宿の全容が書かれていました。
(お七里役所は、紀州藩が江戸の状況を国もとに知らせる為に七里毎に置いた役所跡です。)
![blogDSCN5118.jpg]()
![blogDSCN5121.jpg]()
で、更にほんの少し歩くと 「とろろ汁の丁子屋」 があり、その向いには丸子宿の石碑と宿場の情報が書かれていました。
丸子宿は1601年に徳川家康の命で東海道の伝馬駅に指定され、江戸から184km,20番目の宿場です。 1843年の記録によると、宿場の大きさは東海道の宿場の中では最も小さく、宿場の町並みは630m,795人の人が住んでいた様で、 家は211軒,宿は本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠24軒だったそうです。
![blogDSCN5141.jpg]()
で、やっとたどり着いた 「丁子屋」 での遅めのとろろ汁の昼食です。
丁子屋さんは慶長元年(1596年)創業だそうで、とろろ汁の材料は自然薯で、一時は自然薯の確保に非常に苦労された様です。
丁子屋さんの内部には歴史館もあり、江戸時代の品々が展示されておりました。
中でも歌川広重の丸子宿を描いた五十三次の版画には丁子屋さんが描かれており、当時の本物の版画をドイツから購入してきたそうです。 (確かドイツと聞いたと思いますが記憶違いだったらごめんなさい。)
丁子屋さんのホームページ http://www.chojiya.info/jp/#/about/facilities
今の丁子屋さん
![blogDSCN5131.jpg]()
歌川広重の五十三次の版画
![blog1280px-Tokaido53_Mariko[1].jpg]()
で、前置きはともかく、とろろ汁を頂きました。 私は最もシンプルなとろろ汁だけの定食です。
![blogDSCN5138.jpg]()
私は奥の座敷で食べましたが、館内には丁子屋さんのとろろ汁目当てのお客様が多く来られており、一時は満席、順番待ちな程でした。 天井の両側に並ぶ絵は広重の五十三次の版画(複製?)です。
![blogDSCN5137_edited-1.jpg]()
とろろ汁、美味しかったですよ!
静岡駅からのアクセスは静岡鉄道のバスがほぼ1時間に3本出ておりますので、そんなに苦も無く行けると思います。 勿論、帰宅の為の静岡駅方面へのバスもほぼ1時間に3本でています。
是非皆さんも行かれてはいかがでしょう。
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この宿場間には2つ名物がありましたが、その1つ安倍川もちにはがっかり(前回のブログ 「その1」 参照)でしたが、もう1つ、丸子宿(鞠子宿:まりこじゅく)のとろろ汁を昼食に食べる事に期待を持って、安部川での休息後歩きを再開しました。
安部川を渡った所は ”手越” と言う街です。
江戸時代の手越は下写真の様に小さい街だった様ですが、非常に古い街の様で、1200年頃の蘇我物語や平家物語に出てくる人達が生まれた街との事。

で、少し歩き、国道1号線と別れ、208号線を10分程歩くと、下写真の様な地蔵堂がありました。
この地蔵堂は 「佐渡りの子授地蔵尊」 と言うそうで、「昔、子供に恵まれない夫婦がここに安置されているお地蔵さん1体を借り、信仰すれば子供が授かると言われており、めでたく子供が授かった人は新しいお地蔵さんを1体作り、お礼まいりをした」 そうです。
その為に地蔵堂にはたくさんのお地蔵さんが祀られているとの事。 残念ながら今回は地蔵堂の中を見る事は出来ませんでした。

208号線には昔の松並木の名残りと思われる松の木が何本か植わっており、丸子宿手前の街は、私が想像していた以上にひらけた街で、更に20分強歩くと下看板が見つかり、その先は道が細くなっていました。
この230m先が東木戸との事で、ほぼこの辺からが江戸時代の丸子宿の様です。
ここ迄きて、「あれェ~、一里塚がなかった???」 どうやら長田西小付近にあったはずですが見逃した様です。

今は 「丸子宿」 と書く事が多いのですが、読みは 「まりこじゅく」 で、昔は 「鞠子宿」 と書く事が多かった様です。

丸子宿の東木戸から10分程歩くと 「本陣跡」 の石碑が見つかりました。

更にほんの少し歩くと 「お七里役所」 跡があり、そのお宅には丸子宿の全容が書かれていました。
(お七里役所は、紀州藩が江戸の状況を国もとに知らせる為に七里毎に置いた役所跡です。)


で、更にほんの少し歩くと 「とろろ汁の丁子屋」 があり、その向いには丸子宿の石碑と宿場の情報が書かれていました。
丸子宿は1601年に徳川家康の命で東海道の伝馬駅に指定され、江戸から184km,20番目の宿場です。 1843年の記録によると、宿場の大きさは東海道の宿場の中では最も小さく、宿場の町並みは630m,795人の人が住んでいた様で、 家は211軒,宿は本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠24軒だったそうです。

で、やっとたどり着いた 「丁子屋」 での遅めのとろろ汁の昼食です。
丁子屋さんは慶長元年(1596年)創業だそうで、とろろ汁の材料は自然薯で、一時は自然薯の確保に非常に苦労された様です。
丁子屋さんの内部には歴史館もあり、江戸時代の品々が展示されておりました。
中でも歌川広重の丸子宿を描いた五十三次の版画には丁子屋さんが描かれており、当時の本物の版画をドイツから購入してきたそうです。 (確かドイツと聞いたと思いますが記憶違いだったらごめんなさい。)
丁子屋さんのホームページ http://www.chojiya.info/jp/#/about/facilities
今の丁子屋さん

歌川広重の五十三次の版画
![blog1280px-Tokaido53_Mariko[1].jpg](http://hisashi1946.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_6a2/hisashi1946/m_blog1280px-Tokaido53_Mariko5B15D.jpg?c=a1)
で、前置きはともかく、とろろ汁を頂きました。 私は最もシンプルなとろろ汁だけの定食です。

私は奥の座敷で食べましたが、館内には丁子屋さんのとろろ汁目当てのお客様が多く来られており、一時は満席、順番待ちな程でした。 天井の両側に並ぶ絵は広重の五十三次の版画(複製?)です。

とろろ汁、美味しかったですよ!
静岡駅からのアクセスは静岡鉄道のバスがほぼ1時間に3本出ておりますので、そんなに苦も無く行けると思います。 勿論、帰宅の為の静岡駅方面へのバスもほぼ1時間に3本でています。
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